時間軸を自分に戻す
静謐の時間
私は他人からの影響を数多く受けてきました。
そのせいで私の人生は迷走状態に陥っているのです。
私の中にある欲望と、頭の中にある常識や外部からの価値観が相容れずに分裂しているからです。
この状態が苦しいのです。
どうしたら良いのかわからないので、書籍に助けを求めました。
「年収1億円になる人が実行している36の習慣」井上裕之著(PHP研究所)を手に取ってみました。
年収1億円と私の葛藤に何の関係もないように見えるのですが、この本の中に「静謐の時間」というフレーズがありました。
まず「静謐」とは静かな状態を現します。
要するに「無」の状態であるとも言えます。
あえて周りに誰もいない時間、人の声どころか物音ひとつしないような静かな時間を設けます。
ぼんやりと何もしない、何も考えない時間は心の休養となり、それ以外の時間の密度を高めます。
それが、家族や仲間の声に包まれる幸福感や感謝の気持ち、明日への大きな活力に繋がっていきます。
本から「静謐の時間」についての項目を抜粋しました。
静謐は環境だけではなく、思考も含まれます。
刺激のない環境に、何も考えない時間。
この、ぼんやりと何もしない時間を作るのは難易度が高いのです。
電車に乗ったときに周囲の乗客を見回してみると、スマホをいじっているか眠っているかのどちらかだと思います。
人間は刺激のない状態が苦手なのです。
何も考えない時間の重要性
ぼんやりと何もしない、何も考えない時間。
それで「何もしなくても良いの!?ラッキー!」という風にはなりません。
先ほど電車に乗った時の周囲の乗客を見回してみましたが、そんな私の手元を見るとしっかりとスマホを握りしめているではありませんか。
日光浴にしても、森林浴にしても、瞑想をしている時でも、必ず何かを私は考えているし、意識が方々に散り続けているのです。
つまり刺激を求めているのです。
「無」の状態を意識してみて感じ始めた当初は焦りでした。
それは何かしないといけないと感じる焦りです。
でも焦りを感じているということは、頭が空っぽになっていないということです。
時間を設定してこの間だけ「ぼーっ」としてみようと思っても、時間設定することで「長いな…まだか…」とか余計なことを考えてしまうのです。
どうしても静謐の時間を感じたかったので、寝る前にベッド上でタイマーをかけてお香も炊き、リラックスした状態で無になってみました。
↓愛用しているお香はローズマリーやラベンダー。
この状況だとあと眠るだけで良いし、このまま眠っても良いので焦りを感じることもないと思います。
ひとまず天井を眺めながら5分間「ぼーっ」としてみました。
やはりマブタが重くなってきて、途中で何かよくわからない映像のようなものが一瞬見えて、あっ?夢か・・・と気づく。
昔、禅寺に坐禅を組みに行ったことがありました。
あの時も雑念が止まらずに無になることがいかに難しいかを感じたことを思い出しました。
しかし今回は「静謐」を体験できそうな予感があります。
焦ることもなく、行為に意図や意義を見出すこともなく、ただ「ぼーっ」としてみる時間。
それが家でできるものなのか、自然の下でできるのかはわかりませんが、あと一歩だと感じました。
外でぼーっとしてみる
川沿いの並木道の下で、静謐の時間を過ごしました。
少し前にこの場所でひとときを過ごしたときに鳩と雀が1羽いました。
それが今回もいたのです。
ずっとつるんでいるのでしょうか?
何も考えずに「ぼーっ・・・・・・・・・・・・・」。
見ると隣のベンチには仕事帰りの会社員の方が1人で一杯やっていました。
プルトップを開けて宙にに向かって無言で乾杯!の仕草で缶ビールを傾けていました。
暖かくなってきたので、静謐の時を過ごすことが容易にはなってきました。
しかし屋外は刺激が多過ぎて、思考を「無」にすることができませんでした。
↓枯れ木の下で贅沢なひととき
静謐の時間の意味
この何も考えないひとときに、何の意味があるのかという話です。
私なりに考えてみたのですが、「静謐」は「刺激を入れない」行為です。
帰宅してからあえて無音の状態を作って自分と向き合う時間を作ると、自分の中から湧き上がる感情を意識できるようになります。
幸福な人生は外部からの価値観によって授けられるものではないと思います。
それは自分の深い部分の本心が何を求めているかを知る必要があるのではないでしょうか。
自分を知るには考えていることや、感じていることを意識する必要があります。
だから家に着いたらイヤホンを外し、スマホを消すのです。
つまり「静謐の時間」は軸を外の常識ではなく、自分に持っていく作業だと思います。
お金が欲しいのか?
人から認められたいのか?
注目を浴びたいのか?
物が欲しいのか?
本心は自分にしかわかりません。