人間関係

ボーッとしてたら天罰(?)を喰らう。

神様は本当にいるのか?

物事を進める際には、マルチタスクよりもシングルタスクの方が実は効率が良いそうです。

だから同時に様々な本に手を出すより一点集中でひとつの本を攻略していく方が達成感を味わいやすく身になりやすいのです。

「お手上げの法則」大木ゆきの(大和書房)に取り組むことにしました。

お手上げの法則の内容

「お手上げの法則」を読んでから、私は「ぼーっとする時間」を重視するようになりました。

この「ぼーっとする」時間の意図ですが、この世界がもともと人間を幸せにするようにできているということを受け入れて理解するところから始めないといけません。

宇宙の叡智というのでしょうか。

神様とは違うようなのですが、この世の法則として宇宙というのはそのようにできているというのが著者の考え方です。

真実はよくわからないし、宇宙の叡智というものの恩恵をはっきりと受けたことがあるような無いような状態なので、絶対にあるから信じて!とは言い切れないのですが、この「ぼーっとすること」によって人間は宇宙の叡智と繋がりやすくなって、自分を幸せにするアイデアが浮かんできたり、幸運な巡り合わせがやってきたりしやすくなるようです。

さっ、怪しくなってまいりました。

こういう話が受け入れられない人は多いと思います。

私はこの本を楽しんで読める方だったので、きっと宇宙の叡智というものを信じている(信じたい)のだと思います。

お手上げの法則の3本柱

正式な本の名称は「幸せが無限に舞い降りる『お手上げ』の法則」です。

この本の実践すべき課題は以下の3つです。

1、ぼーっとする。
2、自分を褒める。
3、楽しいことをする。

とても簡単な内容ですよね?

この中で難易度が高いのは「自分を褒める」ことだと思います。

世の中には自分を褒めることができない人もいるようですが、私はただ褒める行為を忘れてしまうので、なかなか定着できませんでした。

関連記事
お手上げの法則の肝の部分をマスターする。

目次1 現状を打開するためにはスピリチュアルに頼る1.1 実は良書?1.2 本の肝になる部分1.3 考えることの弊害1.4 恩恵を与える宇宙というもの1.5 宇宙と同調するということ1.6 受け入れる ...

続きを見る

ぼーっとする場所

「ぼーっとする」のも簡単なようで実はけっこう難しいのです。

まず空いた時間ができると人はつい携帯を見たり、テレビや本を読んだりしてしまいます。

頭に空白を作ることを嫌うというのでしょうか。

少しでも空きができるとついそれを埋めてしまうのです。

例えば電車に乗った時に周囲を見回してみてください。

みなさん大抵携帯電話を触っているか、眠るか、新聞を読まれていると思います。

一点を見つめて「ぼーっとする」人はほぼ皆無だと思います。

また「ぼーっとする」ときに考え事もしてはいけません。

とにかく思考に意識を向けずに呼吸に向ける。

もし思考が浮かび上がったらそれをなんとかするのではなく自然に消えていくまで見送る。

実際にやってみるとどれだけ思考に振り回されているかに気づくと思います。

放っておくとすぐに思考に浸ってしまうのです。

それだけ頭の中を「無」の状態にして「ぼーっとする」という行為は特殊なことなのです。

その「ぼーっとする」時間や場所ですが、私の場合はジムに行って機械トレーニングをしているときのインターバルで「無」になってみたり、仕事帰りに近所の河原のベンチに座って「ぼーっとする」。

また仕事が始まる前に職場から最寄りの神社に寄って「ぼーっとする」など、場所や時間を決めて取り組むことで習慣化しようと試行錯誤をしている状態なのです。

1日の出だしから大すべり

毎日私は近所の氏神様に挨拶を行った後、本堂の階段に座って5分間「ぼーっとする」ことを日課にしていました。

この日も境内に漂う朝の香りを吸い込みながら「無」になるように勤んでいました。

5分が経ち神社を後にして職場へと向かっていると、建物の陰でキャップ帽を被ったおじさんが立っていました。

ちょっとあんた・・。そこの神社におったじゃろ?

・・・・・・。

私はここの町内会長なんじゃが、最近ここでのぉ・・賽銭泥棒が発生しててのぉ・・あんたがあそこにおったら疑われるぞ!

はぁ?よりよって賽銭ドロボー・・・。

そんな賽銭ドロボーなんてしてません。神社の雰囲気が好きなんでそこでぼーっとしているだけです・・。

あんたの気持ちはよくわかるんじゃが風が悪いけぇの〜。ぼーっとしたいならあそこの公園でしんさい!

そういうとおじさんは神社の目の前にあるだだっ広い公園を指さしたのです。

はぁ・・わかりました。

おじさんは私にぼーっとする場所を指定すると、道路を隔てた向こう側に置いてあった車に乗り込んで去って行きました。

賽銭泥棒?嘘つけ・・と思いました。

ただ毎朝本堂の階段に座って「ぼーっとしている」私の姿を見た近所の住人が、気味悪がって会長にクレームを入れただけだと思います。

わざわざ車に乗ってやってきて、しょうもないこと言いやがって・・・。

会長に罪はないが、近所のクレームを入れたやつらめ!!と最初は知らない人に話しかけられて面食らったようになりましたが、次第に怒りが込み上げてきました。

何があってもこの町内には住まない・・と町ごと嫌いになりそうでした。

なんだこの扱いは…(この段落はただ不満を垂れ流しているだけなので飛ばしてもらっても結構)

何が神社だ・・。

お高くとまりやがって・・。

確かに私は賽銭に寄付をしていないが、お金を出さないからってこの扱いはないだろう。

本当に神様なんているのか?いたらこのような扱いはしないだろ?

よくも賽銭ドロボー扱いしやがっ・・・。

ぼーっとできる場所より気持ちのゆとりが必要

このような無益な恨み辛み怒りの時間を過ごしたわけですが、考えてみるとぼーっとできるような場所を探すよりも生活に「ぼーっとする」時間を取り入れていくゆとりの方が重要だと思いました。

平日は仕事があるので、フリーに過ごせる時間は限られています。

かといって休日はとても貴重で、少しでも自分の人生に変化を与えたいと思ってしまって焦りが強くなり、気が落ち着かなくなってしまうのです。

だから結局「ぼーっとする」余裕が平日・休日ともに無いのです。

ありきたりな考えかもしれませんが、私に必要なのは人生を変化させるという発想よりも、現状を充分だと感じ「足るを知る」という心境になることなのかもしれません。

-人間関係
-, , , , , ,

© 2025 元ひきこもりで彼女が車いすユーザー。そして何とか成長しようとあがく男のブログ Powered by AFFINGER5