目次
やる気がしない日に無理して何かをしようとすることをやめてみた
俺は一体なにがしたいのか?
幸福な人生について考えてみました。
今回は最近思ったことをダラダラと書かせていただくという内容です。
以前よりかはマシにはなったのですが、人生で何も成し遂げていないという思いがあって私の中で漠然とした焦りがあります。
しかしその漠然とした焦りというのは所詮漠然としたものなので、目指す目標がそこまで明確ではありません。
成し遂げたいことが明確ではない自分は不幸のような気がします。
しかしそれは本当なのでしょうか?
努力して能力を身につけることは、私の場合その能力を使って多くの人に影響を与えて敬意を得たいという憧れがあるからです。
それは多くの人たちに尊敬されて自分の存在を記憶に残したいという願望でもあります。
若い頃には名を残したいという思いがありましたが、名を残すことと幸福が繋がるとは限りません。
名を残したり人々の記憶に残ったとしても不幸な人間はいるはずです。
南の島の漁村のエピソード
なんの本に書いてあったエピソードか忘れましたが、とある南の島に漁村がありました。
その村の人たちはマイペースでのんびりと漁を続けていたそうです。
すると、外国人がその様子を見て彼らにアドバイスをしたのでした。
外国人「のんびりする時間があったら、その休んでいる時間の時でも漁に出かけたらどうかい?」
村人「そんなにたくさん魚を獲ってきていったいなにをすれば良いのさ?」
外国人「多く獲れた魚で缶詰でも作って売り出したら良いじゃないか?」
村人「缶詰を作ってなにをすれば良いのさ?」
外国人「う〜ん、そうだな〜、その売り上げを元に缶詰の工場を作って大量に売り出したらお金持ちになれるぞ!」
村人「お金持ちになってどうするんだい?」
外国人「そうしたら、悠々自適にのんびりと過ごせるようになるよ!」
村人「いまものんびりと過ごしてるよ」
外国人「・・・・・・・」
詳細はあやふやですが、確かこのようなお話しだったと思います。
結局なにがしたいのか?
死ぬ間際にやらないと後悔することって私の場合それほどないような気がします。
今はもし明日死んでも特にそれほど後悔しないような気がします。
このブログを書くのもやめて、漁村の住民のようにひたすらのんびりする人生にシフトチェンジしたら今すぐでもそれは可能ですし、平穏な生活を送ることはできると思います。
簡単ではありませんが、人と比較する思考を放棄すれば、のんびりとした人生はおくれるようになると思います。
それは「楽しい」とか「嬉しい」という感情を味わうことを優先した人生です。
それは、なんの意味もない人生かもしれません。
ただ自分が楽しいだけで、私が死んでしまったらほとんどの人たちの記憶に残らない人生。
そう思うと寂しい気持ちもありますが、どれだけ名をあげた人でも亡くなったらたいてい忘れられてしまうものではないでしょうか。
歴史に名を残すような人物でも、それが苦難の人生ならば、無名でも楽しいことがいっぱいの人生の方が良いと個人的には思うのです。
だから多くの人に影響を与える人生よりも「楽しい」を優先させた感情に正直な人生を過ごしていきたいと思います。
そう思うと楽な気がします。
※多くの人に影響を与えながらも「楽しい」人生が理想ではありますが・・。
リストをつくって実践することに必死になっていた。
あらゆる本の中から実践できそうなことを抽出したリストを作ってきました。
そのリストに書いてあることを何年もかけてこれまで実践してきました。
↓これが私の「リスト」です。
人生を変えるために良かれと思ってつくったリストが、常に何かをしないといけないと感じてしまう原因となって、結果的に自分を苦しめるようになっていることに気付いたのです。
結局はなにもしなくて良い?
冷静に考えてみると充分にいまの生活で満たされているのです。
ひとり暮らしを行なって3年以上経ちます。
自立した生活を送っていると、これまでできなかったことができるようになった達成感や満足感が湧いてきます。
年々生活が楽しくなってきているのです。
これは私が若い頃にひきこもり状態に陥っており、社会生活がおくれてこなかったことも原因かもしれません。
↓我が家・・。
いま不満を感じることは、ツレとの関係と仕事が楽しくないということです。
仕事については仕事の中で喜びを見出す努力をしながら、他の収入源を作り出すこと。
またツレに関しては治療法が見つかれば良いのですが、ツレが自活できる環境が整えられたらそれで充分な気がします。
もっとお金を稼ぎたい
どうしても仕事が楽しくなくて逃げ出したいと思った時には、仕事の選択肢を増やすのです。
しかし逃げ道を作ることを考えるというのは、いずれ職場でうまくいかなくなることありきの発想です。
だから今の職場でうまくいく方法を見出せるようになれば逃げ道は必要ありません。
ツレとのこれからの生活も、2人の収入だけでゆとりを持って生活できれば問題はありません。
もしかすると障害をもったツレとの生活が困難になると思っているのは、私の頭の中で勝手に作りだした思い込みの可能性もあります。
何もする気になれない時には何もしない
ブログを書く意欲が萎えています。
週末私はブログを3本書こうと思っていました。
2000文字以上を3本。
しかしここ最近、読んでいる本は大木ゆきのさんと斉藤一人さんの本を繰り返し読み続けているだけなので、特に生活に進展もなく文章の中身もぶっちゃけると同じ内容の焼き直しとなっています。
ただ惰性で書き続けているだけで、ほとんど誰も読んでいないこのブログをくたびれながら続けることに果たして意味があるのだろうか、と疑問を持つようになりました。
意味のあることを行っていると思えないとどこかで思っているなら、一旦止めてみよう。
今週末はひとまずやりたいことだけを取り組んでみることにしました。
土曜日はマッサージに行って、映画を観に行き、散髪にも行って、ウインドーショッピングを行って、カフェでひとりでのんびりとお茶をしました。
そして翌日は一日中家でうたた寝をしながら、のんびりと過ごすことができました。
この2日で充分に満たされてしまいました。
ネットを断つということ
「賢者のタイミング」700ニキ著(KADOKAWA)を手に取ってみました。
著者の700ニキさんは株式投資で生計を立てている方なのですが、著者も「ぼーっとする」重要性を訴えています。
新しい発想が浮かぶのは、何もしていないときであり、彼は自分と向き合う時間が欲しいと思ったときは格安チケットで海外に行き、ひとりっきりになって携帯電話の電源も切ってしまうそうです。
著者は意識的に情報を断つことで、自分と向き合い、目的やビジョンを考える時間を確保して、新しいアイデアを考える時間を設けているそうです。
ちなみに考えごとをしているときというのは、脳の特定の部分のみが活性化するそうで、ぼーっとしているときは、脳が満遍なく活性化するので、脳が最大限に働いてくれるのはぼーっとしているときなのだそうです。
また常に情報にさらされて、刺激を受け続ける状態の何がまずいのかというと、情報を整理する時間が得られないという点です。
私は社交的な人間ではないので、700ニキさんのように海外に行かなくてもひとりっきりになる時間は確保できます。
だから週末や仕事のない時間にでも携帯電話を1時間でも切って、ぼーっとする時間は容易につくれるのです。
友達がいなくても、それはそれでメリットがあるようです。
私は生活を発展改善をするために本やネットから情報を取り込んでいます。
しかし、すでに満ち足りているならそこまで情報を取り込む必要はないのかもしれません。
まとめ
今後については、携帯を切って何もしない時間をつくること。
そして、何かしないといけないと思っているから睡眠時間が削られていくわけですから、さっさと眠って心を安定させること。
充分な睡眠時間が確保できると心を安定させるセロトニンという脳内物質が放出されるそうです。
セロトニンが放出されれば幸福感を高まっていきます。
あれこれ生活に余計な肉がつき過ぎている気がします。
シンプルにしようと思えば可能なのですね。